第6話:三大山城・岩村城に登るの巻
≫
第1話はこちら≫
第2話はこちら≫
第3話はこちら≫
第4話はこちら≫
第5話はこちら2013.5.6
腹ペコのへろへろ旅人と化してましたが何とか朝食にありつき、元気回復です。朝ご飯を食べ終わってベンチで地図を見ていると…
岩村城跡
『日本三大山城のひとつ、別名「霞が城」現在は石垣のみだが霧が出ると幻想的』ツーリングマップル中部北陸 P40 D-4
とあります。場所も岩村の町並みからすぐのところですな。これは行ってみたい、ということで、案内看板にしたがって町から外れていきます。少し登ったところに駐車場があったので、そこに駐輪させてもらってここからは歩きましょう。山城だからちょっとしたハイキングになりそうです。

石畳を登っていきます…もうすでに足が棒…登る前からこれで大丈夫でしょうか…(+o+)

てくてく登っていきましょう。山道?を歩くのも久々な気がします。森林浴っていうんでしょうか、なんかいい感じです。たまに前方から降りてくる人がいたりして、朝早くから登っている人がいるんですね。それにしてもふくらはぎがパンパンです…腹ペコで坂を上ったりだいぶ無理しましたからね、かなりダメージを負っているのかもしれません。

しばらくうねうね登っていくと、少しずつ石垣が見えてきました。これはもう少しで天守閣でしょうか?

看板が出てきました。ひし形の石垣が特徴らしいですぞ。平坦な場所に出て右に曲がると…

おお!!見えてきました!!あれがひし形の石垣ですね!!

かなり雰囲気のあるお城です。段々になった石垣がいかにも難攻不落といった感じを醸し出しています。
…ところで誰のお城だったんでしょうか(今更…)
岩村の町の中では「女城主」というお酒を売ってる酒蔵もありました。女性の城主のお城だったんですかね。たぶんそうなんでしょうね。ほんと、なんの情報もなしに登ってきてしまいましたな。
建物自体は残っておらず、石垣のみですが、その石垣の組み方は素人目にもすごいことが感じ取れます。

東口門…いよいよ天守閣です。

天守閣付近から東の方角を見た景色です。青々とした山々が眼下に広がっています。

一番上の天守閣があった場所まで来ました。思っていたよりも広い空間です。木々が多い茂り、残念ながら岩村の町は見渡せません。

天守閣の広場の看板で、ようやくどういう歴史のある山城なのか把握です。
頼朝の家臣、加藤景廉が文治元年(1185)このあたりの地頭に任命されたことから歴史が始まる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以後遠山氏が代々居城した。
戦国時代に武田信玄の臣秋山信友が天正元年(1573)に岩村城を奪取して入城するも織田軍に敗れ以後城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森三代、田村具忠と28年間に目まぐるしく交替した。
慶長5年(1600)関ケ原合戦後、西軍に属した田丸氏変わって松平家乗が城主となった。江戸時代はその後も松平氏、丹羽氏が城主となった。建物は明治維新により廃城され取り壊された。
こんな概略らしいです。歴史の長い長いお城だったんですね。
調べてみると、「女城主」とは上記の織田武田の争奪戦のころの「おつやの方」という織田信定の娘で信長の叔母にあたる人物のことらしい。相当な美貌の持ち主だったとか。当時の城主、遠山景任の嫁としてここに嫁いできたが、景任が子供がいないまま病気に倒れてしまい、信長の五男坊丸を養子とするもまだ幼かったため、事実上の女城主となったとか。その後、武田軍が岩村城を奪取したときには秋山信友の和議に応じ、妻となっている。ある意味、信長への裏切りだ。もちろん逆上した信長は、織田軍が奪取したときに信友とともに処刑したとのこと。その時の処刑は逆磔刑という大変キツイ死刑だったらしい。
簡単にはこういうことらしい。まさに戦国時代らしいお話。歴史にはあんまり詳しくないので理解が間違えていたらすみません( 一一)
(今はスマートフォンがあるとその場で調べられて便利だったりする。)

武田軍と織田軍の争奪合戦、変わりに変わった城主…明治の廃城…長い長い歴史を体全体で感じながら、しばらく石垣を眺めていました…
岩村城跡
岐阜県恵那市岩村町城山
大きな地図で見る
テーマ : 城めぐり
ジャンル : 旅行